2015年




ーーー2/3−−− 偽八ヶ岳


 
甲府盆地の北部に、茅ヶ岳という山がある。安曇野から東京へ出掛ける際、諏訪を過ぎて暫くすると、左手に八ヶ岳が見えるが、その八ヶ岳が過ぎると、茅ヶ岳が見えてくる。形の良い独立峰であるが、「偽八ヶ岳」という不名誉な名前でも呼ばれている。
 
 何年も前だが、JR中央線で東京から戻った時の事。良い天気の日で、車窓には美しい野山の景色が流れていた。私と同じボックス席に、年配の夫婦が座っていた。窓の外を眺めながら、あれこれ感想を述べ合っていた。

 茅ヶ岳が見えてきた。お婆さんが「あれ、立派な山が見えて来たよ。あれは何ていう名前の山かねぇ?」と言った。するとお爺さんは、ちょっと考えた様子の後「あれは八ヶ岳だよ」と言った。お婆さんは「あれが八ヶ岳かい。立派な山だねぇ」と返した。私は心の中で「見事に引っ掛かったものだ」と苦笑した。しかし、正解を言い出すことは控えて、黙っていた。

 そのうちに、本物の八ヶ岳が現れた。興味深い展開となってきた。お婆さんは「また高い山が見えて来たけど、あれは何て名前かねぇ」と、期待通りの質問をした。それに対してお爺さんは、「あれか?あれはねぇ・・・」と口ごもった挙句「あれは槍ヶ岳だよ」と言ってのけた。これにはさすがに驚いた。

 中央線をさらに進むと、視界が良い日なら、本物の槍ヶ岳の山頂を望むことが出来る。遠くて小さいから、なかなか気付かないが。もしお婆さんが、その槍ヶ岳を発見したなら、そしてまた訊ねたら、お爺さんは何と答えただろうか。




ーーー2/10−−− 突然暴露された事実


 
会社勤めをしていた頃の思い出話。米国のメーカーから、ある機器(ガスタービン発電機)を調達することになった。メーカーとの間で、一通り書類やテレックスのやり取りをした後、最終段階のネゴ(価格交渉)の運びとなった。メーカーの営業マンは、日本国内の営業所に勤めている米国人ゴールドベルグ氏(仮称)。これまで何度も取引をしたことのある、お馴染みの男だった。

 社内の来客用会議室に関係者が集まった。こちらからは、機器担当エンジニア、プロジェクトエンジニア、調達部の担当者など数名。あちらからは、ゴールドベルグ氏の他に、本社からやってきたマネージャーが出席した。数千万円の物件なので、双方かなり熱が入っていた。会議はもちろん英語である。

 会議を進めても、なかなか価格の折り合いが付かず、行き詰った。日本チームは、ゴールドベルグ氏に許しを求めて、その場で日本語でこそこそと相談を始めた。相手に話の内容を知られないよう、日本語で喋ったのである。会議の席でこんなことをするのは、いささかアンフェアなやり方だとは思うが、こういうことは普通に行われていた。相手側も、慣れたもので、別に異を唱えたりしない。

 「この外人さん、ふっかけてるぜ」、「甘く見られてるんじゃないか」、「一発脅しを入れてやるか」などの言葉が、日本チームの間で交わされた。しかし、その内容を気取られないよう、表情は穏やかに取り繕う。ニコニコ顔の紳士の口から、毒々しい言葉が次々と飛び出すという、変な光景。いっぽう米国チームの二人は、俺たちにゃ関係ないよ、と言った感じで、窓の外の景色を眺めていた。

 その後、会議は再開された。出席者の中にエンジニアの加藤氏(仮名)がいた。技術的な内容を確認するために、その場に呼ばれていた。用件が終わり、加藤氏は席を立って会議室から出て行った。その直後に、会議室に備えられていた電話が鳴った。近くにいた男が受話器を取り、しばしの後「ああ、加藤君ならいまちょうど出て行ったところだよ。まだ近くにいると思うから、呼ぼうか?」と言った。すると、ドアの近くに座っていたゴールドベルグ氏は、にわかに席を立った。そしてドアを開け、廊下に向かって、明瞭な日本語でこう叫んだ「カトウさん、ちょっと、お電話かかってます!」

 その瞬間の、日本チームの面々の、驚きと気まずさの混じりあった表情は、滑稽だった。ゴールドベルグ氏は、日本語ができたのだ。つまり、自分たちの内輪話は、全て筒抜けだったのである。

 それにしても、数年間の付き合いの中、氏は日本語を使えると言う事を、おくびにも出さなかった。だから日本チームは安心して毒づいていたのである。氏にしてみれば、隠していた方が有利という判断もあったかも知れない。ならば何故、あの時、言わばどうでもよい状況で、その事実を暴露したのだろうか? 
 
 相手をあっと驚かせてるチャンスをとらえた、米国流のユーモアだったのか。それとも、自らに非は無いとはいえ、正体を隠して相手の会話を盗み聞きすることに、嫌気がさしたのか。
 



ーーー2/17−−− ありがとう♪


 「いきものがかり」という、妙な名前のポップスグループが、5年ほど前に出したヒット曲「ありがとう」。その中に、文字通り「ありがとう」という、印象的なフレーズがある。我家では、よく子供たちがこのフレーズだけをピックアップして歌っていたものだった。

 先日、テレビでいきものがかりの特集があり、「ありがとう」も流れた。なかなか訴求力のある、良い歌だと再認識したわけだが、例のフレーズがやはり気になった。何でこれほど耳に残るのだろうか? そこでハタと思い付いた。この五つの音は順番にドレミファソなのである。小学生でも知っている、最も馴染み深い音階を、そのまま使っているというわけだ。

 私は音楽の専門知識は無いが、このやり方は言わばルールを外れたもののように思える。メロディーは、音階の中から音を選んで組み立てるものである。音階そのままでは、なんとも芸が無い。少なくとも、決め所で使うようなものでは無いはずである。

 そのような異例を敢えて行なう事により、あの印象的なフレーズが出来上がっている。これは発想の転換とも言うべき事だと思う。意外性が、独特の効果を与えているのである。

 ところで、このドレミファソの旋律。どこかで聞いたことがある気がした。記憶をたどってみたら、行き当たった。クラシックの名曲、ショスタコーヴィッチの交響曲5番の最終楽章で、極めて大胆な形で使われている。「ありがとう」の作者がそれを知っていたかどうかは、分からない。




ーーー2/24−−− 幻覚体験


 ちょうど今の時期であった。大学一年の春休みに、初めて山スキーを体験した。栂池から白馬大池を経由して白馬岳へ。稜線に上がった所でスキーをデポし、山頂をピストンして、下山は一気に滑り降りるという計画だった。

 私は、その冬にスキーを始めたばかりだった。ゲレンデで二、三回滑っただけの初心者が、山スキーに行くと言うのは、今から考えれば無謀である。その当時の山スキーは、登山靴にスキーを履いた。足がしっかりと固定されないので、その難しさはゲレンデスキーの比ではない。しかも、重いザックを背負ってである。そんな装備で、踏み応えの無い深雪の中を滑り降りる困難は、想像してもし過ぎる事は無い。

 山岳部の、三年上の先輩と二人だけの山だった。その先輩は、これまでこのマルタケ雑記に何回か登場したS氏である。同じ名前が繰り返し出てくるのは、その先輩が私をかわいがってくれたという事もあるが、そもそも部員数が少なくて、毎回同じようなメンバーで山に行くしかなかったのである。

 二日目に天狗原へ達した頃から、天気が荒れ出した。天狗原は、平坦な雪原である。雪面を掘り下げて雪洞を作り、泊まった。翌日は、猛吹雪だった。雪洞の入り口が埋まってしまうので、何度も除雪をした。狭い雪洞の中で、S氏と身を寄せ合うようにして、一日を過ごした。

 次の日は、天気が回復した。しかし、日程に余裕が無くなったので、登頂は諦めて、下ることにした。ルートは、風吹大池方面の尾根。S氏としては、このルートの下りが、山行の主眼だったようである。ともかく天狗原を後にして、下りにかかった。

 出だしから転倒の繰り返しだった。ターンなど到底できないから、斜滑降とキックターンの繰り返しで、ジグザグに降りるしかない。その斜滑降の終わりは、必ず転倒だった。深雪の中でスキーのコントロールが出来ず、転倒して止めるしか無いのである。樹林の中なので、木にぶつかる前に止まらなければならない。つまり転倒するしかない。転倒すると、立ち上がるのも大変だった。

 手をついても潜ってしまう雪である。そんな雪にずっぽりと埋まってしまうのだ。ましてや重いザックを背負っている。立ち上がるだけでも、たいへんな努力を要した。足元が不安定なため、立ち上がった瞬間にバランスを崩してまた倒れたりした。まさに深い雪の中で、悪戦苦闘する有様だった。転倒して起き上がる度に、体力を消耗した。それが滑る都度毎回である。そんな事を何十回も繰り返すうちに、疲労困憊した。

 S氏はスキーが上手なので、スイスイ降りて行く。そして私を振り返って、「早く降りて来い」と呼ぶ。待っているのが寒いのだと言う。人の苦労も知らないで、勝手な事を言うものだ。

 夕方近くなって、S氏がルートを外したようだと言い出した。持参した地図を外れて北の方に進んでしまい、もはや現在地は不明だと。そして、今日中に下山するのは無理だから、雪洞を掘ってもう一泊しようと言った。私はその発言を聞いて、絶望的な気持ちになった。完全に体力を使い果たし、もうフラフラであった。しかも、さんざん雪を被っていたので、身体は濡れて寒かった。この状態で、寒い雪洞で一夜を過ごすのは、生命の危険があるように感じたのである。しかし、現在地も知れないのだから、S氏の言う通り下界に着くまで何時間かかるか分からない。行動中に暗くなってしまったら、さらに危険な状態になる。

 樹林帯の斜面の窪地のような場所の吹き溜まりに、雪洞を掘った。まさにぎりぎり二人が入れる大きさのものだった。その中で寝たのだが、ほとんど眠れなかった。体が雪洞の壁に押し付けられ、衣類が濡れていたせいもあって、体温を奪われた。寝袋に入っていても、すごく冷たく、ガタガタ震えた。夜半、幻覚を見た。小さな灯りが、雪洞の天井をゆっくりと移動するのである。それが何度も繰り返された。初めはS氏がヘッドランプで何かを探しているのかと思った。しかし、氏はスースーという寝息を立てて寝ていた。

 翌朝、起き上がろうとしたら、頭がつかえて起こせなかった。我々の体温で雪洞の天井が下がり、横たわった体のすぐ上まで迫っていたのである。しかたなく、二人とも寝転がったまま朝食をとった。

 またしても辛い下山が始まった。滑っては転びを繰り返した。スキーは自分を苦しめる以外の何物でも無かったが、スキーを外したら足が雪に潜ってしまい、歩くことは出来ない。苦しみの種が、生還のための唯一の道具であった。

 午後もだいぶ遅くなり、薄暗くなってきた。もはや完璧に疲れていた。もう一泊山の中で過ごしたら、間違いなく疲労凍死すると思い、恐怖を感じた。突然、少し先に進んでいたS氏が、「人家の灯りが見える」と言った。それはまさに神の声のようだった。白い魔界からの脱出行は、ようやくゴールを迎えた。下界に達したのである。

 道路に出た所でスキーを外し、歩いた。遠くに列車の駅のようなものが見えた。着いてみると、大糸線の北小谷駅だった。待合室のベンチに座り、うずくまった。全身から血の気が引いたように悪寒がした。口を開いて話す気力も無かった。その時の私の様子を、後日S氏は、「大竹はあのまま死んでしまうかと思った」と述べた。

 列車に乗って帰京したわけだが、途中の乗り換えの際、時間があったので、駅前食堂で食事をした。疲労困憊の私は、全く食欲が無かった。胃が食物を受け付けようとしなかったのである。しかし、食べなければいけないと思い、頑張った。S先輩に「少々時間がかかると思います」と断わり、少しづつ食べ始めたが、一杯のうどんを食べ終えるのに30分ほどかかった。

 私は今でも時々寝床の中で、あの雪に閉ざされた過酷な夜を思い出す。そして、暖かい布団でぐっすりと眠れる幸せを感じるのである。



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